しかし、プラスチック分野への進出は、その後の同社を大きく発展させる原動力となった。現在の事業の主柱である環境装置は、プラスチックの加工技術が種子となって、大きく開花したものといってもいい。 同社がプラスチック事業を拡大していった昭和30年代後半は、早稲田大学を卒業した牛込氏が入社し、新事業の経営を任された時期に一致する。そして、その時期はまた、わが国の石油化学産業が飛躍的な発展を遂た時代とも重なっている。 「はじめのうちは塩ビパイプが水道管に使えるということを認知してもらうだけでも大変でした。しかし、産業のいろいろな分野にプラスチックが使われるようになって、その特性が急速に理解されるようになったのです」 プラスチックの加工技術といっても、素材自身が新しく登場したばかりで、どこの企業も手探りで模索するような状態だった。 「どうしても分からなくなったら専門家に聞けばいいと考え、まず現場に通い、とにかく仕事に取り組みました。技術を学んだのはほとんど現場からで、お施主さんと素材メーカーとうちのスタッフが試作とテストを重ねて会得したノウハウが、当社には数多くあります」 若き牛込氏にとって、当時は技能工とともに現場で過ごす日々の連続だったという。 「営業とは、お客さんが納得してくれる技術を提供することであり、その技術は現場の話し合いの中から生まれるのだ、と痛感しました」 現代ふうにいえば、ユーザーとの共同開発の実践だ。この手法は同社の伝統となり、事業のバックボーンとなっている。 「当社にとって有利だったのは、環境装置の据え付け運転というエンジニアリング会社であると同時に、その機械装置を生産できる工場を持っているということです。アイデアを提供するだけではなく、それを実現する機械装置を自社で製造できたことが、その後の関連事業の発展につながっていきました」 なお、牛込社長(当時は日東プラスチック専務)は、昭和38年から今日まで、積水化学工業の管工機材事業部とその工事店を結ぶ任意団体「エスロンプレート会」の会長に就任している。工事現場での氏の活動ぶりから見て、氏ほどメーカーと工事店の実情を知る人物はいないと評されて推挙されたものと思われる。